Saturday, March 15, 2014

ダンスをやる意味―Kaleidoscopeの活動をとおして

待ちに待った春休み!
まだ何もやってないような気もするけれど春学期、そしてプログラム自体も折り返し。
でも振り返ってみるとかなりいろいろやったなぁと思う。

論文みたいなタイトルになってしまったけれど、今回は毎週金曜日の朝にあるKaleidoscopeというワークショップ形式の授業のはなし。ワークショップ形式といっても、わたしたちが受けるのではなくて、提供する側。毎週NY市のいろいろな学校の、いろいろな学年の生徒たちを招待して行っています。

Kaleidoscopeにやってくる生徒たちは、African AmericanやLatinoが多い。Kaleidoscopeに参加している学校がすべてそうというわけではないのだけれど、低所得地区の学校が多いと人種も偏るのが事実。わたしも詳細はわからないのだけれど、NY市の公立学校の差は、日本の学校と比べ物にならないんじゃないかと思う。たしかABTのアウト・リーチの話で書いたけれど、まずNY市における貧富の差はものすごい。治安が悪いような地区にある学校は、低所得の家庭の子どもが多い。いろいろな事情で両親と住むことができない子どもたちもいるし、シェルター(家がない人のための自治体が提供している施設)で暮らしている子どももいる。もちろん日本でもそういう子どもがいるのは分かっているけれど、割合が違う。そういう子どもが学校にいても特別じゃないレベルの学校が少なくない。多分今までNYUに来た学校の半分くらいはそういう環境の学校だったんじゃないかと思う。アパートに住んでいても一部屋に家族全員(親戚もはいるレベル)で暮らしていたり、家族がギャングだったり。より高学年になると、特に移民の子どもは、家族のなかで自分が初めて高校を卒業するという生徒もいる。学校の建物内は安全だけど、その周りは危ないというような地区は未だにある。人種、経済状況、社会的地位が多様なNYだからこその問題。

ダンスの授業も毎日ある学校から週1回の学校、さらには専門選択科目としてやっているグループなどさまざまだけれど、基本的にはテクニカルなワークショップはやりません。Kaleidoscopeで行うのは簡単なエクササイズとテーマにそった創作。前もってダンスの先生に生徒たちがどのようなことをやってきたのかを聞いて、それに基づいて授業計画を練る。学年・年齢に関わらず、生徒たちができるだけ自発的に活動できるようにKaleidoscopeのメンバーがサポートにはいる。あくまで生徒主体。当然だけれど、創作活動なので「正解・不正解」もない。

なぜアウト・リーチでなくイン・リーチなのか、というと、自分の住んでる居住地区から抜け出して違う地区に足を伸ばすこと、大学という場に足を踏み入れることが、そうした環境で暮らしている子どもたちにとって大きな意味を持っているから。家や学校の外を歩き回るのが危ない地区なのであれば、どこかへ出かけるようなこともない。家族で高卒すらいないのであれば大学という世界がどういうものなのかもわからない。ダンス以前に、NYUまでやってくる、というだけでも彼・彼女たちにとっては冒険だし、場合によっては恐いことでもある。ただ、わたしたちがsafe spaceとして、踊る空間、そしておどりを自由に創ることのできる空間を提供することができれば、生徒たちに「こういう場もあるのか」「こういうこともできるのか」という気づきや、もしかしたら希望を与えることができるかもしれない。もちろんアウト・リーチでも変化は生まれると思うけど、いつもの「場」から抜け出すというのは本当に大きいことなんだと気づかされる。

今週わたしたちが迎えた小学校2年生たちはスタジオにはいるなり「わーーーー!」と息をのんでいた。わたしたちがいつも「ボロい」「汚い」「スピーカーが壊れてる」とか文句を言っているスタジオも、その子たちにしてみたら天国。「こんなに広い空間初めて!」「鏡がある!」と目を輝かせていた。この子たちは格別に素直で、話もとってもよく聞けるグループだったので余計だけれども、その体験だけでも意味があるんだと実感させられた。

いつもワークショップのおわりに円になって座って、みんなで感想を一言ずつ伝えるセクションがある。「ダンスを創るのがこんなに面白いとは思わなかった」という感想は珍しくないし、そこが一番楽しかったと言う生徒は多い。わたしの印象に残っているのは、中学生の生徒の「『いまのよかったね!』って声をかけてきてくれて嬉しかったし、全体的にそうやって認め合える雰囲気なのがよかった」という感想。

わたしたちは、このワークショップに参加している生徒たちとその時間だけしか共有していないから、普段どういう生活を送っているのかなんてわからない。でも終わったあとに先生から学校や生徒たちの状況を聞くと「本当にそんな生活を送っているのか」と思わざるを得ないこともたびたび。そんな環境で教えている先生方には頭があがらない。それでも、生徒たちにとって特別な場で、思いっきり身体を動かして、グループのみんなであれこれアイディアを出して自分たちのダンスを創るという作業は、はじめはこわくても、やっぱりワクワクする楽しいことなんだな、とか、ちゃんと意味のあることなんだな、と思いはじめている。劇的にlife-changingでなくても、学校や家に帰ってからも「あのワークショップ楽しかったなー」って心に留まるものとなればいいな。ちなみに、「リズムに合わせて身体を動かす」ことが目的のダンスは、意義がとても限られてしまうと思うんだよなぁ。楽しいことは楽しいと思うのだけど、どれだけ「認め合える機会」が生まれる?どれだけ心に残るものになる?

当たり前だけど、Kaleidoscopeのような活動は、ダンサーや振付家を育てるためにやっているのではない。でもダンス(のようなもの)を必要としているひとびとが世の中にはたくさんいる。本人がそれに気づいていない場合も大いにあるということ。それに恵まれて生きてきた人間には理解できない意味を持っているかもしれない。わたしはダンスがすべての解決策とは思わないし、ダンスがきっかけで他のなにかにつながるのであれば、最終地点や解決策がダンスじゃなくてもいいと思う。それでも、本当に、世界で生きていく上で必要な「なにか」や「そのきっかけとなるもの」を提供できる力や可能性をダンスは持っている。気づいてないひとも多いのだったら、きちんと触れることのできる場は多い方がいいんじゃないの?と思うわけです。

人間それぞれ得意不得意なことはあるし、みんながみんな自分の能力を活かせる場で活躍できるとも限らない。みんながエリートでばりばり働いて稼ぐわけでもないし、芸術家として成功するわけでも、オリンピック選手になるわけでも、世紀の大発見をするわけでもない。そういうのはそういう人に任せとけばいいわけだし、みんながそんなんでも困る笑 そりゃ生活していくのに、国語・算数・社会・理科もお金もそれなりに必要だけど、本当に「生きていく」にはダンスを始め芸術系のものが持っているようなものが必要なんじゃないかと思う。別に芸術系だけが持っているものでもないから、人によってはそれがスポーツだったりするんだろうけど、ダンスがそれを持っているのをわたしは分かっている。別に「万人が生きていることの意味についての考えを持つべきだ」というわけでもないけど、まぁ生きてたらそういうものにぶち当たるのではないか、と知的好奇心で生きているわたしは思うわけで。そういう疑問だったり、深刻な問題にぶちあたったときに路頭に迷うんじゃなくて、自分でも何かできるという希望や自信と考えられる力があればいいな、というだけの話。

いままで書いてきたいろんな要素のまとめみたいな気もするけど、ずーっとおどってきた人間がいう綺麗事なんかではなくて、「なるほどそういう意味もあるのか」という程度でもいいから、少しでも多くの人に届けばいいなと思っている。

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