Monday, January 20, 2014

2013年年末に考えたことのまとめー「教育」とは。「教える」とは。

冬休み真っ最中。ありえない寒さにたびたび襲われるNYCですが、たまに鼻風邪をひいたりしつつ、元気にやってます。
いまさらだけど、無事にこちらにきて一学期も終わり、成績も無事オールAだったので安心。ふふ。
年末は両親や友人がNYに遊びにきていたのでもっぱらツアーガイドをやってました。 大好きな街に大事な人たちが遊びにくるというのはなんとも嬉しい。
来週からいよいよ春学期がスタートしますが、その前に。
学期末から冬休み中にかけて、「教育とは?」や「教えるとは?」ということを自分でまとめたり、友人と話したりするなかで気づいたことを改めて振り返ることにしました。芸術や舞踊教育については、まだしっかり考えることができてないので、とりあえずわたしの根本的な教育への見解を。


秋学期、いろいろな教育者の理論を読む授業があったのだけど、なかなか素晴らしいeducatorsに出会うことができた。
10月末のNDEOの学会で、わたしがもやもやと疑問に感じた「一体なんのための舞踊教育なのか」ということを考える上でもいい材料がたくさんあった。授業でとりあつかった文献や期末のグループ・プレゼンテーションを聞いたりするなか、教育のおそらく最も重要な、幹の部分は「人間、この世界にあって、どうあるべきか」ということなんだという考えに辿り着いた。そしてそこが教育の最高に面白いところなんだと思う。

当たり前なんだけど、その「瞬間」を、その「場」、つまり「いま・ここ」で生きていかなきゃいけないから「いま・ここ」が存在する「世界」を考慮せずに、人間がどうやって生きていくかについてを語ることはできない。どれだけ世界と関わってるかを自覚しながら生きてる人がいるかは疑問なところもあるけれど、まぁ、とりあえずしっかり生きていくためには世界と自分の関係、世界のなかの自分の立場とかといったものがわかってないといけない、ということ。どうしたって世界と関係のなく生きていく人間は誰ひとりとしていないわけだから、教育が「人間、この世界にあって、どうあるべきか」を追求するものなのだとしたら、教育に関係ない人はいない、ということになる。


なんでこんなことを考えていたかというと、まずはもともと教育にまったく興味のなかったわたしが「案外面白いものがみえるかもしれない」と思って始めた根拠をさぐる必要があったということ、それから、わたしが「なんのための舞踊教育なのか」ということを聞かれたときに自信を持って答えられる根拠がわかっていなかったから。でもこうして、上の「この世界で人間がどう生きていくべきか」ということに直接的に関わってくるのが教育、という前提があれば、まず「教育に関係のない人はいない」ということで、弱気のわたし(笑)も、これでいいんだ、という自信がもてる。興味のなかったわたしも「それなら面白い」って思える理由でもある。

つまり、この根拠がベースにあるのだったら、芸術がいちばん包括的にこれを実現できる、というわたし個人の考え・信念をしっかりサポートできる、と考えた。

「結局のところ人それぞれだよね」という姿勢がわたしにはまだあるから「まあ合わない人がいても仕方ないね」とは思うんだけど、芸術にふれて世界が広がっていくひとをみていると、そういう問題でもないんじゃないか、という気がしてくる。

マーガレット・ドゥブラー(Margaret H'Doubler)というアメリカの舞踊教育の第一人者がいた。彼女は「必修科目としてダンスをとりいれるということは、ダンスがどうやって「自分」という人間に影響を与えるかを体験する機会をみんなに等しくつくること」ということを言っていた。わたしがこの一節が好きなのは、まず「ダンスが人に影響を与える」という事実を(あるいは、それを事実として)さらっと提示していること。それから「体験する機会」という言葉。「体験したら重要性わかるでしょ」ということでもあるとは思うのだけど、「最終的な判断はその人に」という余地が残されているこのフレーズがいいなって、ああそういうアプローチで考えればいいのか、と少し安心した。

相当なポジティブ人間みたいに聞こえるんだけど、教育って究極的にいうと「世界は面白いところで生きててよかった」って思えるベースになるものをつくる手段なんだと思う。学校教育だけじゃなくて、家の中の教育も含まれるし、当然ながらバレエ・スタジオもこのなかに入る。きっかけはなんでもいいんだけど、根底としてはこれなんだろうと思っている。

さて。
教育に興味がなかったわたしは、もちろん「教える」ということに関してもあまり興味がわかない。なにかと教育関係のバイトについていたことが多いのにも関わらずそれってどうなのと自分でも思ってしまう。苦ではないのだけど、楽しい!とか好き!というわけでもない。
っていうか「教える」ってなに。どういうこと? 

先日NYUで同じ専攻の友人とご飯を食べていたとき「教える」ことについて少し話した。
彼女は「教えるの楽しいじゃん!」とも言っていたし、いままで出会ってきた先生たちが本当にいい先生たちだったらしくその人たちみたいになりたい、と思ったりもしたらしい。ふむ。「楽しい」というのはあまりわからないんだけど、いい先生たちにならわたしもたくさん出会ってきたし、ああなりたいって思うこともあった。「ああなりたい」というのは「先生になりたい」ということではなく、おそらく「わたしもああいうふうに誰かを影響するような素敵な人になりたい」ということなのではないかと思う。

修論に書いたこととつながってくる(というかそれ以前に当たり前のことなんだ)けれども、だれかを教育するということは、その人を地点Aから地点Bまで連れて行く、見せる、とかそういうこと、つまりその人を変えることになるのではないか。それってつまりは、教育する=だれかを影響すること、と言い換えることができるのではないか。

だれかを影響することなら、なんとなく魅力が分かるかもしれない!
その人をまだ見ぬ(素晴らしい)世界に連れて行くことができるのだとしたら、わたしはそれをやりたいって思うし、そのヒントをあたえたり、誘導したりするのは楽しいし、好きだということに気がついた。多分わたしが知的好奇心のある人間だから、知的好奇心あふれる人間中心的思考でいくとそれはfor the good of peopleになる。おせっかいでもあるんだけど笑
もっと次元の低いところだと、「もっとこうしたら上手く踊れるんじゃないか」というテクニカルな面で気づくことがあったらそこも結構口出しする。見て見ぬ振りはできない、というか、ほっとけない、ということなんだろう。そもそも人をみるのは好きというか面白いから、その上で自分がその人のなにをbring outできるか、ということも楽しい。

なんだか彫刻というか陶芸とかと似ているなと思う。こんなふうに言うとわたしにすべて主導権があるみたいに捉えられるかもしれないけど、そうじゃない。そもそもその人をみていなければ分からないし、はたらきかけたところでどういう変化が起きるのかはわからない。彫刻家や陶芸家だって素材と対話をしてるんだから一方的にやってるわけじゃない(それじゃできないと思う)。その変化が起きたうえでまた次の手を考えるから、また観察・対話に戻る。そう、つまり「教える」というのは「はたらきかけ」なんだ、ということに気がついた。

「はたらきかけ」の関係性というのは、「他」と「自分」という項がないと成り立たない。他が土であれ、人であれ変わらないと思っている。はたらきかけたらフィードバックがある。それが「教える」ことの本質というか構造であり、先ほどでてきた「世界とわたし(つまり人間)」の構造でもある。気づくこともたくさんある。つまり「教える」ということはある意味では「世界と関わる自分」縮小・ミクロ版みたいなものなのではないか。

どうやらわたしは「教える」ということをものすごい狭義的な行為としてとらえていた、ということに気づいた。(Thanks to my friend!)
秋学期の授業で読んだブラジルの教育哲学者パウロ・フレイルPaulo Freireがteaching is learningとか言っていたのを読んでいたのに「そうだよね」くらいで理解したつもりだったのか。もっと壮大というか生きることの本質に関わってくるようなものなんじゃないのか、この「教える」という行為は。不可逆なところが恐ろしいのではなく、面白いのだと思う。 


そして「教育」の魅力のひとつは、一生かけてやっていける、というか一生かけても終わらないというunfinishednessにある。このunfinishednessというのもフレイルの著書(Pedagogy of Freedom)にあったフレーズ。世界と自分の関わりは当たり前だけど死ぬまで続く。自分も変わるし、世界も変わるから、関係性はいつまで経っても変化し続ける。「教える」という行為もこれに然り。
わたしの場合、その手段が芸術であり、ダンスであり、バレエ、となる。っていうか、根本的には芸術がやってることと、わたしがここで言っている「教育」はなんら変わらないと思ってる。

それでもって「教育」の素敵なところは、理論だけじゃなくて実践をふまえないと完全にならないところ。そもそも「教育」が「はたらきかけ」につながるのであれば、実践がなければならないのは当然のこと。そしてわたしはこうして勉強していくなかで「はたらきかけ」られて、変化して、世界と自分の関係についても考え直したりしている―つまりわたしがした「教育」の定義を地でいってることになる。

生きていくというのは究極的にはそういうことであって、わたしは生きていくことがどういうことなのかを見つめることを専門にした、ということになる。それが許されたのだとしたら、それを背負う責任もでてくるわけだけど、責任というよりはミッションとしてやっていく、というか「当たり前じゃん、やんないでどうするの」と実感しているところです。

なんて贅沢な人生!

この機会とめぐりあわせを可能にしてくれたすべてに感謝して、2014年もたくさん踊って学んでいきたいと思ってます。