Thursday, March 27, 2014

Fulbright Enrichment Seminar at Pittsburgh!

春休みの後半でFulbrightのEnrichment Seminarに行ってきました。

と、その前にかるく、フルブライト奨学金の説明を。

フルブライト奨学金は、フルブライト上院議員のはたらきかけによって、いまから約60年前にアメリカと世界各国の相互理解を目的として発足された留学奨学金制度。約150カ国が参加しているというプログラムで、アメリカからの留学もアメリカへの留学も、アメリカ政府とその国の政府から奨学金が給付されるシステム。

今回のセミナーも68カ国(だったかな?)からの参加者がいました。本当に世界各地から来ているので、母国から遠いところだと「ん、どこだ、それは…」となる参加者も少なくない苦笑 でもそうして「この国の人と出会えるなんて思ってもみなかった!」というような出会いが生まれる。アメリカと自国だけでなく、アメリカに集まった各国のひとびととも出会えるという機会がもうけられているのが素敵なところ。相互理解には、実際にその国の人と会ってみる、その国に行ってみる、というのは月並みに聞こえるかもしれないけど、やっぱりそれしかないとわたしも思います。遊びに行こーと思ったときに、案内して!とお願いできる国がかなり増えました笑 

Enrichment Seminarは1年目のフルブライターたちが参加できるセミナーで、自分の興味のあるトピックの希望をだして選ばれた人たちが参加できる形式。

わたしが参加したのはCivic Engagement: Youth Empowermentというテーマのセミナー。このYouth Empowermentのセミナーは何カ所かで開かれていて、ピッツバーグもそのひとつ。しかし、ピッツバーグってどこ笑 とか思っていましたが、なかなか興味深い街でした。まったく予備知識なしで向かったのですが、ピッツバーグが辿ってきた歴史をしっかりとレクチャーされ、初日のディナーには市長さんまでやってきて、これからどうやってやっていくか、というようなことを話してくれました。

ピッツバーグは採鉱・鉄鋼の街としての繁栄から、鉄鋼業による環境汚染、それからその廃退という転落を経験した街。そしてそこからのカムバックという歴史を持っている。University of PittsburghとCarnegie Mellon Universityの二つの大学の専門分野(医療やサイエンス全般などが主に有名)で、ふたたび若いひとびとが集まってきたりしている。面白いのが、ピッツバーグに住む人たちはこの街をとても気に入って、この街出身じゃない人も住み着いたりするケースが多いということ。いまもまだたくさんの問題を抱えているわけだけど、地元愛にあふれるひとびとがポジティブな力でよりよい街にしていこうとする姿勢がとても印象深かった。
余談ですが、Carnegie Mellon Universityのキャンパスに一瞬入ったのだけど、とっても素敵。バスにいるあいだずっと「ここで勉強したい!!」って言ってました。笑

Youth Empowermentというのは日本語にどう訳せばいいのか分からないのだけど、とりあえず若者がきっかけとなって動けるようにする力をあたえる、ということ。「与える」というと語弊がありそうなのだけど、とにかく、実際にその街で生活をしている人の意見や声を聞く、ということの若者版と捉えてもらえればいいかと思います。

全部書くとあまりにも長いので印象に残ったことを。

パネル・ディスカッションで、Teen Blocという団体で活動している地元の高校生たちが自らの活動を話してくれました。いろんなことをやっているのだけど、高校生の立場から自分たちの権利を守ろう、と主張したり(その権利についての法案を提出したりしてる)、高校生たちが自由に表現できる場を提供したり、と高校生ってこんなことできるんだと驚き。いわゆる生徒会とかも同じような機能だとは思うのだけど、学校を超えての活動だから影響の範囲がより広いし、そこで取り扱う問題もより社会的になるんだと思う。フルブライターたちも「自分が高校生のときにはあんなしっかりしてなかった」と脱帽…笑。

すごいな、と思うのは、生徒たちはもちろんなのだけど、それをサポートしようとするシステム、あるいは大人側があるということ。法案を書くにあたっては、子ども・青少年の権利のエキスパートがサポートにはいったり(もちろん案は高校生から出てるけど、それをどうやって法的に書くかということのサポート)、高校生たちの声を広げるためのプラットフォームとしてメディアを提供したりする団体など、そうやってサポートするシステムがあれば、いわゆる社会的な立場では声が届きにくい子どもたちでもちゃんと声が届く。そして、子ども・青少年の声を届けようとして活動している専門家や大人たちがいるのが目からウロコでした。

もちろん、この地域の高校生、みんながみんなこの団体の生徒たちみたいに本当によくできた子たちではないわけだけど、それでも大事だなと思ったのが、子どもたちに責任を持たせる、ということ。当たり前だけど、子どもだからと言って、あれもこれも「半人前だからできない」と言われるのは面白くない。でも彼らなりの考えや意見があって、特に学校教育の場なんかでは、それを聞くことってとても大事なことなんじゃないだろうか。パネルで言われていた例が、校内の警備員が銃を持ち歩いていることについて。いくら警備員とはいえ、学校の敷地内に銃があるという事実は変わらない。そのことがかえって生徒たちを不安にさせるというのであれば、その体制は本当に望ましいものなのだろうか?この体制をとっている学校はひとつだけではないし、学校を超えてより多くの生徒たちが声を上げれば、それを変えることも可能になる。「状況を自分たちの力で変えることができるんだ」ということを若いうちに体験できるのは、すごいことだと思う。そんなに物事シンプルじゃないとは思うけど、そうやって育ってきた人たちが増えていって、いろいろな問題に面したときに諦めるんじゃなくて、どうしたら改善できるか、と協力し合って(大人になったってそれは1人じゃできないから)取り組める力が大きくなるのは、やっぱりいいことなんじゃないかと思う。

そして、こうした活動をしているのはNPOがほとんどで、そういう団体が少なくないということ。フル・タイムで働いてる人が1人とか多くても数人しかいなくて、あとはパート・タイムやボランティアでやっていたり。よくそれで回るなぁと感心してしまうのだけど、これもアメリカの文化らしい。前学期のperforming arts administrationの授業で読んだ本に「アメリカはNPOで成り立っているといっても過言ではない」というようなことが書いてあって「へぇ」と思ったのだけど、それを実際に見てきたような3日間でした。地元愛が溢れるひとが多いと、より積極的にボランティアなどに関わって自分の住む地域をよくしようと思う人も多いのかしら。ここでも「自分たちの力で状況を変えることができる」というのが鍵になる気がする。
なんとも、アメリカらしい。でも「自分たちの力で状況を変えることができる」ということを知っている、というのは、老若男女関係なく、やっぱり大事なことなんじゃないかと思う。
セミナーの内容とは離れるけれど、フルブライターたちについて。いつだか前にも書いた気がするけれど、フルブライトのすごいところは、奨学金をだしてくれるところだけではなく、というか、それよりも、こうした機会を設けてくれるところ、それからその先々で出会うひとびとにある。
以前からすごいなーと思っていることなのだけれど、本当に世の中のためを思って、行動を起こそうとしている人たちはちゃんといる。もちろんフルブライト外でもそういうひとびとはたくさんいるのだろうけど、わたしはフルブライトで出会ったひとびとを通して、世の中は悪いところじゃないって思い始めている。
わたしは基本的に世の中面白いと思って生きている人間だけど、やっぱりどこか懐疑的なところもあって、なにかの記事を読んだり、テレビで見るだけでは「うさんくさいな」と思ったりすることがかなり多いし、遠い人たちは何をやっていても遠い。でも、そういうことをやっている生身の人間(しかもその信条がにじみ出てくるような人間性の持ち主)たちと話したり、ともに時間を過ごしていると、good minded peopleというものは本当にいるんだ、と希望がわいてくる。その人たちの話を聞いて「そうか、そういう問題があるのか」「そういう側面からもアプローチできるのか!」と知ることもしばしば。知り合う人種も含め、世界が文字通り、ぐーんと広がる。そうして広がる世界を、新たな視点でみることができる経験というのは、素晴らしい財産だな、と。そういう人たちが集まる場にいられる機会があるのは、本当に、本当に恵まれてる。この機会を与えてくださったフルブライトには感謝してもしきれないのではないかな。

わたしもつたないながらも、わたしの大事に思っていることを伝えたりしながら、誰かの世界が広がれば、と思うし、その先々でなんらかのいい影響を与えることができれば、と思っています。

Saturday, March 15, 2014

ダンスをやる意味―Kaleidoscopeの活動をとおして

待ちに待った春休み!
まだ何もやってないような気もするけれど春学期、そしてプログラム自体も折り返し。
でも振り返ってみるとかなりいろいろやったなぁと思う。

論文みたいなタイトルになってしまったけれど、今回は毎週金曜日の朝にあるKaleidoscopeというワークショップ形式の授業のはなし。ワークショップ形式といっても、わたしたちが受けるのではなくて、提供する側。毎週NY市のいろいろな学校の、いろいろな学年の生徒たちを招待して行っています。

Kaleidoscopeにやってくる生徒たちは、African AmericanやLatinoが多い。Kaleidoscopeに参加している学校がすべてそうというわけではないのだけれど、低所得地区の学校が多いと人種も偏るのが事実。わたしも詳細はわからないのだけれど、NY市の公立学校の差は、日本の学校と比べ物にならないんじゃないかと思う。たしかABTのアウト・リーチの話で書いたけれど、まずNY市における貧富の差はものすごい。治安が悪いような地区にある学校は、低所得の家庭の子どもが多い。いろいろな事情で両親と住むことができない子どもたちもいるし、シェルター(家がない人のための自治体が提供している施設)で暮らしている子どももいる。もちろん日本でもそういう子どもがいるのは分かっているけれど、割合が違う。そういう子どもが学校にいても特別じゃないレベルの学校が少なくない。多分今までNYUに来た学校の半分くらいはそういう環境の学校だったんじゃないかと思う。アパートに住んでいても一部屋に家族全員(親戚もはいるレベル)で暮らしていたり、家族がギャングだったり。より高学年になると、特に移民の子どもは、家族のなかで自分が初めて高校を卒業するという生徒もいる。学校の建物内は安全だけど、その周りは危ないというような地区は未だにある。人種、経済状況、社会的地位が多様なNYだからこその問題。

ダンスの授業も毎日ある学校から週1回の学校、さらには専門選択科目としてやっているグループなどさまざまだけれど、基本的にはテクニカルなワークショップはやりません。Kaleidoscopeで行うのは簡単なエクササイズとテーマにそった創作。前もってダンスの先生に生徒たちがどのようなことをやってきたのかを聞いて、それに基づいて授業計画を練る。学年・年齢に関わらず、生徒たちができるだけ自発的に活動できるようにKaleidoscopeのメンバーがサポートにはいる。あくまで生徒主体。当然だけれど、創作活動なので「正解・不正解」もない。

なぜアウト・リーチでなくイン・リーチなのか、というと、自分の住んでる居住地区から抜け出して違う地区に足を伸ばすこと、大学という場に足を踏み入れることが、そうした環境で暮らしている子どもたちにとって大きな意味を持っているから。家や学校の外を歩き回るのが危ない地区なのであれば、どこかへ出かけるようなこともない。家族で高卒すらいないのであれば大学という世界がどういうものなのかもわからない。ダンス以前に、NYUまでやってくる、というだけでも彼・彼女たちにとっては冒険だし、場合によっては恐いことでもある。ただ、わたしたちがsafe spaceとして、踊る空間、そしておどりを自由に創ることのできる空間を提供することができれば、生徒たちに「こういう場もあるのか」「こういうこともできるのか」という気づきや、もしかしたら希望を与えることができるかもしれない。もちろんアウト・リーチでも変化は生まれると思うけど、いつもの「場」から抜け出すというのは本当に大きいことなんだと気づかされる。

今週わたしたちが迎えた小学校2年生たちはスタジオにはいるなり「わーーーー!」と息をのんでいた。わたしたちがいつも「ボロい」「汚い」「スピーカーが壊れてる」とか文句を言っているスタジオも、その子たちにしてみたら天国。「こんなに広い空間初めて!」「鏡がある!」と目を輝かせていた。この子たちは格別に素直で、話もとってもよく聞けるグループだったので余計だけれども、その体験だけでも意味があるんだと実感させられた。

いつもワークショップのおわりに円になって座って、みんなで感想を一言ずつ伝えるセクションがある。「ダンスを創るのがこんなに面白いとは思わなかった」という感想は珍しくないし、そこが一番楽しかったと言う生徒は多い。わたしの印象に残っているのは、中学生の生徒の「『いまのよかったね!』って声をかけてきてくれて嬉しかったし、全体的にそうやって認め合える雰囲気なのがよかった」という感想。

わたしたちは、このワークショップに参加している生徒たちとその時間だけしか共有していないから、普段どういう生活を送っているのかなんてわからない。でも終わったあとに先生から学校や生徒たちの状況を聞くと「本当にそんな生活を送っているのか」と思わざるを得ないこともたびたび。そんな環境で教えている先生方には頭があがらない。それでも、生徒たちにとって特別な場で、思いっきり身体を動かして、グループのみんなであれこれアイディアを出して自分たちのダンスを創るという作業は、はじめはこわくても、やっぱりワクワクする楽しいことなんだな、とか、ちゃんと意味のあることなんだな、と思いはじめている。劇的にlife-changingでなくても、学校や家に帰ってからも「あのワークショップ楽しかったなー」って心に留まるものとなればいいな。ちなみに、「リズムに合わせて身体を動かす」ことが目的のダンスは、意義がとても限られてしまうと思うんだよなぁ。楽しいことは楽しいと思うのだけど、どれだけ「認め合える機会」が生まれる?どれだけ心に残るものになる?

当たり前だけど、Kaleidoscopeのような活動は、ダンサーや振付家を育てるためにやっているのではない。でもダンス(のようなもの)を必要としているひとびとが世の中にはたくさんいる。本人がそれに気づいていない場合も大いにあるということ。それに恵まれて生きてきた人間には理解できない意味を持っているかもしれない。わたしはダンスがすべての解決策とは思わないし、ダンスがきっかけで他のなにかにつながるのであれば、最終地点や解決策がダンスじゃなくてもいいと思う。それでも、本当に、世界で生きていく上で必要な「なにか」や「そのきっかけとなるもの」を提供できる力や可能性をダンスは持っている。気づいてないひとも多いのだったら、きちんと触れることのできる場は多い方がいいんじゃないの?と思うわけです。

人間それぞれ得意不得意なことはあるし、みんながみんな自分の能力を活かせる場で活躍できるとも限らない。みんながエリートでばりばり働いて稼ぐわけでもないし、芸術家として成功するわけでも、オリンピック選手になるわけでも、世紀の大発見をするわけでもない。そういうのはそういう人に任せとけばいいわけだし、みんながそんなんでも困る笑 そりゃ生活していくのに、国語・算数・社会・理科もお金もそれなりに必要だけど、本当に「生きていく」にはダンスを始め芸術系のものが持っているようなものが必要なんじゃないかと思う。別に芸術系だけが持っているものでもないから、人によってはそれがスポーツだったりするんだろうけど、ダンスがそれを持っているのをわたしは分かっている。別に「万人が生きていることの意味についての考えを持つべきだ」というわけでもないけど、まぁ生きてたらそういうものにぶち当たるのではないか、と知的好奇心で生きているわたしは思うわけで。そういう疑問だったり、深刻な問題にぶちあたったときに路頭に迷うんじゃなくて、自分でも何かできるという希望や自信と考えられる力があればいいな、というだけの話。

いままで書いてきたいろんな要素のまとめみたいな気もするけど、ずーっとおどってきた人間がいう綺麗事なんかではなくて、「なるほどそういう意味もあるのか」という程度でもいいから、少しでも多くの人に届けばいいなと思っている。